阪神大震災から18年。震災の記憶。

2013.01.18

 私は当時須磨区の実家に住んでいて、建て替えて日の浅かった我が家は半壊で免れましたが、ご近所の家屋20〜30軒ほどは殆どが全壊と言う状況で、庭も液状化し池のようになっていました。
綱敷天満宮近辺は旧家の多かった地域なので1枚でもかなり重い瓦屋根の家の重みなどで直接の被害で亡くなられた多数の方々,病院のベッドなどが足りずに病状が悪化し二次災害で亡くなられた方々もいらっしゃいます。
須磨区でも海に近い地域は古来地盤が砂地なので被害が酷かったのですが、報道で取り上げられる事が少ない事で支援も手薄で2次災害的な影響を大きく受けた地域でもあると思います。
今は長田区に一軒家を構えて住んでいますが、家の隣の駐車場も、震災前は文化住宅でお亡くなりになった多数の方々がおり、毎年のように1月17日には献花されていました。私も 越してきてから毎日欠かさずご供養しています。

今年のマスコミの震災関連報道を見ていると、”震災の記憶が風化している”と言う趣旨の内容の記事が目に付く。
確かに、震災の経験の無い若者や市外からの流入も増えるなど物理的に変わっているのかも知れない。
しかし、この長田の町に住めば、震災の記憶は決して消える事が無いものだと言うのが体感的にわかる。ここはそういう町なのだ。因みに、ここ(長田区)に来て一番驚いたのが虫(昆虫)。もちろん未だに空き地が多い事で虫の生態にも一種のおおらかさなどがあるのかも知れないが、人と人との繋がりが違う町に住めば、民家の近隣に生息する虫までも違って来ると言う事なのだろう。そこまで影響を与える町である故に、幾らビル郡が建っても町の有り方(コミュニティ)のDNAが変わらないので、震災の記憶も風化するような気配が無い。

そのような訳で、私の震災の記憶(震災の思い出)に関してもさっと箇条書きにあげてみた。
特に風化しているようでは無い事はご理解頂けるかなと思う。

・体が宙に浮いた数秒間、心臓が飛び出しそうになり、死ぬんだと覚悟した。
・都市計画の線に沿って綺麗に燃えたと言う話をよく聞いた。
・ガス,石油タンクまで火災が近づいた時、待っていたかのように、無数の応援の消防車が国道2号線を爆走した。
・小学校に山高く積まれた支援物資は配布せずに腐らせていた物も多い。
・痴呆の夫の分も含む菓子パン2個を貰う為に、避難所にも拒否された足の悪い老婆が半日近くかけて役所までの往復を毎日貰いに行ってた。

コアな話は割愛します。
因みに今、思い返して見ても一番害悪だったのは、(取材し易い場所で取材し易い相手を対象に)刺激的な映像を我先にと取材をしていた当時のワイドショーなどの(わざわざ取材してやってるのだから有り難く思えと言わんがばかりの)在京のマスコミで、視聴率重視的な報道のあり方が、阪神大震災を地方災害の扱いにさせた大きな要因の1つなのだと思います。(もちろん、例外的に、当時のテレビ朝日ニュースステーションの久米宏氏はよくぞ言ってくれたと思っている。被災者支援よりも都市計画重視の行政を真剣に追求したのは同氏だけだったのではないだろうか。尚、久米宏氏は東日本大震災では2億円の寄付をしている)

断層近辺の直下型の縦揺れ震度7と言うのは、一般的な地震が大きいだけと言うようなイメージには程遠く、地震シュミレーターの震度7とは次元の異なる物で、部屋が煮沸した状態、ゴジラに家をもがれている状態、すぐ近くにミサイルが爆発した状態などをイメージして貰うと近いように思います。
最初の独特な音で感じたのは、北朝鮮のノドンが淡路島に着弾、次は怪獣や重機に家を持ち上げられ、そして部屋が煮沸して太鼓の中にでもいるような印象です。(※決して、大げさな表現ではありません 。震災発生数分前に何故か目覚め、しっかり起きていたので記憶しています。)

風化するどころか、消そうと思っても消せない方や、思い出したく無い方、今も多くを話したく無い方と言うのも数多くいるように思います。口にはしなくともそう言った記憶と共に生きて行くのが被災者なのだろうと思います。

震災18年目の今日、予想以上に風化していない震災の記憶を感じます。


写真は最近の長田(新長田)の街並み。街は大手ゼネコン事業をベースとして大きく変わりましたが、人は言うほど変わらず、ここ数年は、街の発展の在り方に大きく影響を与えてい るように感じます。

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