親がくれなかった物、親がくれた物

2008.05.22

子供の頃、親がくれなかった物

お年玉
親戚縁者からしか貰ったような記憶が無い。時代故に貧乏だったけれども、そんなに金銭的余裕が無かった訳では無い。子供に親が大金を渡すと言う行為を悪い風習として解釈されていた。もちろん、親戚から貰ったお年玉はほぼ全額貯金で、自由に使える状況になったのは、確か10代半ば辺りからだったように思う。但し、昔のお正月は、親戚縁者の来客も多く非常に賑やかで、ご馳走や、大量の餅・みかんなどもあり、良い思い出しか残って無い。

誕生日祝い
ちらし寿司や赤飯を炊いて、何かおいしい物を食べて祝うと言うような事はあったけれども、親が子供にプレゼントをする的な事が基本的に無いので貰った記憶は殆ど無い。世間で、一般的に誕生日プレゼントをする風習が出来ている事を知ったのは、小学生になってからのように記憶している。

クリスマスプレゼント
仏教徒と言う事もあり、基本的にイエス・キリストの生誕を祝うと言う事はしない。なので、クリスマスなのでプレゼントを交換すると言う風習が無いし、貰えると言う期待も無い。ただ、サンタクロースからのプレゼントらしき勉強道具や生活必需品の類は何かしらあったような記憶がある。また、菓子類やケーキなどがクリスマスセール最終日で安ければ買っており、それなりに楽しんでいたように思う。

オヤツ
子供は必ずおやつを必ず食べると言う考え方も無かったのか、用意されている事も無く、食べれない事も少なく無かった。お腹が空いたら水道の蛇口をひねって水を飲むと言う事が多かったが、仕方なくと言う面もあるが、昔の水はおいしくてそれで満腹になった。

ウルトラマンを見る時間
そもそも、当時の子供にはチャンネル権が無く、当時の最大の楽しみであった、ウルトラマンを見る為にクリアせねばならない幾つもの障壁があり、日曜日は午後3〜4時位から、10人近く同居している大人たちのご機嫌取りなどもせねばならかった。(長くなるので、機会があれば詳しく書く) にも関わらず、日曜ともなれば体力づくりという名目(親が見て無いところで、友達などと日暮れまで遊びまわっていたので、そんな必要は無いんですが)で、山に連れて行かれ、帰りに酒屋で一杯する時すらあった(これが長いんだわ)。夜に帰宅した時には、既に放送が終わっているか、或いは見れる状況を作る段取りができず、見れずに終わっていた。ともかく、日曜は或る意味”戦争”だった。

学費の一部
学生時代になると、交通費、食費などを含めた、勉学の為に要する費用で足りない場合があったように思う。その際は、貯金から使っていた。特に家がお金で困っていたと言う事は無いが、明治の祖父が書生さんとして苦学をしていた事もあって、学ぶ事に何らかの苦労をさせると言う事が、必然的であったように思う。

子殿の頃、親がくれた物

特に悪いことしなくても軽くゲンコツされる
両親よりも殆どが祖父による場合だが、この場合のゲンコツは折檻とかの意味では無く、挨拶代わりのようなもので、昔話の最中にされる事が大半であったが、意思を受け継げる子孫としての評価であると思われる。もちろん、当時幼児であったこちらとしても、最大の遊び相手の一人なのだから、素直に受け止めていたが、軽いとは言え、ゴツゴツとした大きな拳故に、頭からコブが絶える事は無かった。

10台前後のゼンマイ時計
正しくは貰ったのでは無く、勝手に分解して壊してしまったが正解。最初はゼンマイを回して遊んでいて、それで飽き足らず、中身を見たいと言う衝動を抑え切れず分解。子供で道具もまともに無いので修復できず、壊してしまう。が、折檻されるなど酷く怒られた記憶はあまり無い。その後、古くなった真空管ラジオや真空管の白黒テレビなどへと発展していき、”壊し屋”のレッテルが貼られた。

竹刀
残念ながら、剣道に興味が無く、貰ってもあまり自分が使った記憶は無く、長年放置していたが、この竹刀を使って、軍隊方式と言う事で親に何度も叩かれた記憶はある。早朝まで勉強をしていて、熟睡している休日の朝など、布団を突然剥がされて竹刀で叩かれるのは、結構きつかった。

本・図鑑の類
親がくれたのでは無く、両親や家族がそういう環境を与えたと言うところ。親戚縁者などから頂いたもの、預かった物を含め、2〜3歳児位から、ともかく絵本や図鑑や辞典などが大量にあって読む物、見るものに困ると言う事は無かった。蛇や鼬が住んでいるほどに古いながらも広い家だったので、ともかく本の置き場には困っていなかった。幼稚園前から小学生向きの学習本を読み、独学で単純な算数なども覚えていたと思う。多分、独学の癖はその頃からついていたのだろうと思う。


これも親がくれたと言うよりも、環境である事が大きい。ともかく、大量の虫や水生動物などを取ってきては観察し、飼育し、虫を触り、虫を殺した。ともかく、虫は好きだったが、それで怒られた事は殆ど無かったように思う。

ちょっと古いおもちゃやプラモデル
子供が親にいねだると言う状況が許されないのだから、これも親が買ってくれた物はあまり無く、そう言う環境があったと言う事。ともかく、ソロバンや扇子、置物や、棒切れやクギなど、なんでも玩具になったけど、ちゃんとした玩具でも、親戚縁者からの貰い物かお下がりの類は、大きな段ボールで何箱分にもなって、何人もの友人に分けてあげるほどの数があった。しかも、ブリキ製の怪獣やロボットなどのリモコン動作する玩具やプラモデルなど、当時としても珍しく、もし現存していればかなりのレア物で高値がつくものも少なく無かったように思う。

衣類
普段着る服の大半は親が買ってくれたもので、膝に穴があいたズボンだったが、親戚縁者などからのお下がりなどがかなりの数があり、他所のおうちなおでお出かけで着て行く服が無くて困ったような事が無い。小学生でもブレザーやネクタイなども結構持っていたように思う。

自転車
もう20歳前の学生時代になってからだけど、唯一父から買って貰った記憶のあるのが、ツーリングなどもできる自転車で、車道を並走すれば、原動機付自転車よりもスピードが出た。お陰で一時期自転車通学で通学費が浮いた。父よしては、いずれは家業の配達を自転車で手伝わせると言う魂胆考えもあったと思われる。因みに、自転車は交通事故にあうので危険と言う事で、中学生辺りまで自分の自転車は持っていなかった。

広い部屋
熱心に夜遅くまで勉強をはじめた中学生位からでしょうか、昔の本間で、8畳(か6畳だったか)+4畳半+4畳半の、奥の部屋を与えられました。それまで、戦前の物を含めた古い家具や家財道具などの物置になっていた、幽霊でも出てきそうな部屋です。広いんですが、大きな窓で西日が当たり夏は暑く、きちんとしまらない窓や、床や畳の隙間から吹き上げてくる風で、冬はかなり厳しく、寝ている間に凍死するんじゃないかと思った時もあったように記憶しています。(その後、金物屋で資材を購入し、壁を埋めるなど自力でリフォームしています)

私が生まれた頃は、父が米国・カナダとの貿易の事業に失敗し会社解散後、途方に暮れていた貧乏のどん底で、子供の頃は、親は借金取りに命を狙われる(本人が作った借金では無く、騙された事での借金なので本人は支払うつもりは無い)ほどの状況でしたが、それ以前は、父にしても神戸市内に家屋敷を20〜30軒ほど所有し、従業員も(人件費の安い集団就職時代と言う事もあり)数百名近くいた会社の代表取締役で、祖父・祖母の代もお屋敷は一丁四方ありましたので、お金が十分に無いからこそ、子孫へ継承すべき物を継承しようと務めたのであろうと思います。果たして、それが私に受け継がれているかどうかは、甚だ疑問ではありますが(苦笑)

現代は、教育にお金がかかると言われますが、さほどお金をかけずに子供を育てる事もできるのではないでしょうか。確かに時代が違うのは間違い無いですが、先日も書いたように、特に震災以降、新しいのか古いのかよくわからないようなこの長田区の下町の子供たちは、勉強熱心で、最近は難関高への進学率も高いと聞きます。

もちろん、いい学校に行き、いい会社に就職し、裕福な暮らしをする(確率が高まる)と言う事は、子供の幸せの為にも望まれる事であろうとは思いますが、早い内に子供が色々な物に興味を示し、才能を引き出す環境を作っていく事が、本来の家庭内教育の1つではないかと思います。少なくとも、加速度的に変化の激しい時代に生き残る為には、例えば企業が求める0から1が作れる人材に代表される地頭力などを養える、学校教育では得られない教育と言うものが重要になってくると思います。

私は、塾に行った事や習い事などもした経験はありませんが、幸いにも、幼い頃から興味や関心を持つ環境と言うものには、恵まれていたほうだと思います。果たして、その成果があったかどうかは甚だ疑問ではありますが(^^;)マァジンセイイロイロアリマスカラ

まぁ、ちょっとした昔話(と言うほど昔とは本人は思って無いんですが)の、駄文ですね。

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