感懐:性弱説について考えてみる。

2007.01.16

  お前ごときが何を言うかとお叱りを受けるかも知れませんが、感に触れば、場末のサイトの管理者の戯言と嘲笑して読み流して頂ければと思います。 (要は、スルーして下さいと言う事になります。) 特に、主観に基づく持論を主体として、述べていくつもりは無いのですが、自身の経験に基づく事、或いは同意や感化された事による、偏りなどがある点は否めません。徘徊中に見慣れたサイトを久しぶりに俳文させて頂き、ふと気になって、「性弱説」で検索した結果を見て、ネットの住民として書いてみようかと言う程度のものですので、ご愛嬌のほどを。

 そもそも、「性弱説」なる言葉が出現し出したのは、ネットで散見し調べたところによると、1990年代に入ってからの模様で、明快には指定し難いような印象だ。概ね、「性善説や性悪説などで判断しない、人の弱さが過ちをもたらす性弱説」と言う定義であり、人が善か悪のみで判断されるとは限らない文化圏 故に、このような造語(新語)を思い浮かべる人が過去にも幾人もいたかも知れないが、ネットで確認できたのは、90年代初頭と言う辺りだろう。

最初に規定した者や時期が明確にできないので、ここで、”性弱説”でGoogle,Yahoo,MSN(WindowsLive)の大手検索エンジンで、ネットユーザーの民意を反映した結果に近いであろうと言う”仮の性善説”に則った、検索結果に基づき判断すると、いずれの検索エンジンの結果でも現在、1位掲載となっているページを、性弱説について述べる際の指標とする事が望ましい と言う事で述べさせて頂きます。

仮説「性弱説」 http://homepage2.nifty.com/w-hydroplus/seijakusestu.htm
性弱説とは何か
世の中に性善説と性悪説があることはよく知られている。しかし人間には本来「弱い所があって」これが迷わせ、悩ませ、ためらわせ、色々な物議を醸すのではないか。従って性善説・性悪説の両説を越えたもっと奥深い深遠な薄暗い所に性弱説と言うものがあるのではないか。ただし社会的弱者とは意味は異なる。古今東西、この「人間の弱さ」故に、或いはその反面教師として幾多の歴史的事件、戦争、或いは小説・劇・物語や我々日常生活の葛藤が生まれているのではないか。

(中略)

結語
人間の本性は性・弱であるから、気がつかずにいると知らす知らずのうちに世間から糾弾されるような大不祥事をしでかしてしまう。また糾弾されるような事をしなくても、見識も実力もありながら見えぬ影に怯えて自ら信ずるところ、良心の赴く所をし損なってしまっては、世の中のマイナスとなるばかりでなく、自分自身の存在価値も無くなってしまうではないか。
 それではどうしたら良いか。これはそれぞれの人の心の問題だから説教めいた事は烏滸がましくて言えないが、強いて申せば高い「志をたてる」ことはどうだろうか。

まず、本文は、”2100年の世界の一次エネルギーを考える”(1999年頃から存在し、その後移転し、現在はNiftyのウェブスペースを利用されている 。旧サイトのキャッシュはArchive.orgで確認可能です。)の サイト管理者S氏(ご本名で検索しても6000件以上ヒットされるほどのご活躍をされている方ですので、掲載しても問題は無いかも知れませんが、プロフにご本名が記載されておらず、おこがまし過ぎるのでイニシャルで記載させて頂きました)による1ページであり、初稿の記載は1995年9月となっているが、前書き部分に、数年前に業界紙に寄稿した随筆とある。これが1995年の数年前かサイト立ち上げ時の1999年の数年前かのどちらを述べてられるのかは当方は未確認である事を申し添えておきます。S氏のプロフィールによれば、本年で御年、満84才になられる模様であり、現在もサイトの更新を続けておられます 。語意を明快にする為の最小限度の引用ですので、氏の述べられる性弱説に関しての適切な理解には、リンク先のオリジナル文をご拝読頂ければと思います。

 まず、確認頂く為に他意が無い事を述べておきますが、氏が述べられている事に深く同意、感銘を受けた事がある者として、本文の”結語”の意義は尊重すべき点があると考えます。 簡潔ながら、おこがましくも私的解釈を述べる事になりますが、「そもそも、人は善・悪のみで判断できず弱い者だから、故に、守らねばならない」と言う事で 目にする機会のある性弱説の引用は、S氏の結語での”提案”とは食い違いを見せるように考えます。人の弱さを克服する点に着目し、その手法として「志を高める事」とされている事から、単純な言葉で置き換えれば、「そもそも、人は善・悪のみで判断できず弱い者だから、故に、強く育てなければならない」とする事のほうが、近いようなニュアンスになるのではないかと考えます。愚者故に続けますが、故に、そこには、”母性の愛”では無く”父性の愛”を以って携わる事が適切なのではないかと思う次第です。(父性については、東京女子大学文理学部教授 林道義氏講演による父性の復権のページが適切で良いように思われます。)

 さて、ここで視点を別に移して、「性弱説」について触れている書籍について調べてみると、岩波書店から、”イスラームの日常世界”片倉もとこ著の単行本が、1991年1月21日に初版発行されているのが見つかる。これは、検索した結果、イスラムと言う社会では、”人間は誘惑に負けて悪い事をしてしまうと言う弱い生き物である”と言う 趣旨の考え方によるもので、日本で言われている性弱説と大意では一致しているように思われます。また、S氏の、仮説「性弱説」の”前書き”に着目して頂く事で、「性弱説」なる言葉が生まれた背景にも、氏の影響の受けたと思われる宗教や哲学がある点が、興味深いように思われます。(補足事項として、イスラム社会に関してのサイトをご覧を頂ければおわかりになると思われますが、イスラム圏では、子供の教育に、父性や母性を含めた家族愛が非常に重視されている点が、当方の述べた父性の愛と符合しているのではないかと考えられる点を申し添えておきます。 但し、本文はこれを主張するものではありません。)

 最後に、(後になってわかったのですが)氏の性弱説についての感想や、その他のネット上の性弱説に対する多様な解釈についても、S氏のサイト内でも、仮説「性弱説」その後の動き でご紹介され、”結び”において、ご自身の考え方を述べておられますので、性弱説をより深く理解する為に、是非ご一読頂く事をお勧め致します。

 ネットで散見される性弱説は、最近は、企業のセキュリティ関連で引用される事が多いような印象ですが、性弱説の原点に立ち返る事で、この言葉の持つ意義は、日本そのものが弱体化している現状を理解する上で役立ち、 これからの日本で、私達小市民にできる対処法が何かを考える上でも、重要なキーワードの1つにもなるのではないかと思う次第です。

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