いじめ問題 いじめは無くならないが、いじめ自殺は無くさねばならない。

2007.03.04

 昨日のNHKの”これから” 「 いじめはどうしたらなくせるか?」 ちらと見て、なんだか奇麗事過ぎる印象を受けたので、みのさんの特番に切り替え、実は殆ど見てないのですが(^^;)(最近では、いじめと特撮番組の因果関係など、何度か書いているお題ですが…)

 いじめ。私が子供頃は、子供はいじめられて育つものでした。いえ、子供だけではありません。封建社会の家長の下、家族全員が年長者が年下を順にいじめていたようなもんです。要は、いじめ社会に生まれたのですから、いじめが当たり前で、(半ば義務的に)いじめられるし、(やはり義務的に)いじめていました。ただ、いじめなどとは言わずに、礼儀作法の習得の為の”躾”や、精神鍛錬の”折檻”などであり、それは自我のエゴなどによる物では無く、家などのコミュニティーを守る為に必要不可欠な物でした。(具体的な家での折檻や躾を書けば、毎日なんどもゲンコツで殴られる、ツネられる、紐で縛られて棒などで叩かれる、猿轡(さるぐつわ) で手足を縛られ夜中に裏小屋に放置される、手足を押さえつけられて線香の火を押し付ける… などなどですね) また、これによって、社会に出た時にも(肉体的な体力は劣っていても)”環境に耐えうる強い精神力”を持たせる事もでき、同時に、”痛みがわかる人間”として自然に育てられている故に、正当な(正義感などに則って)暴力的行為をするにしても、程度がわかっていたものですから、子供でも酷い喧嘩はあっても、 相手が大怪我をするほどの、やり過ぎと思えるような物は皆無であったように思います。

もちろん、家の中だけでは無く、程度こそ低くなりますが、世間でも同じで、よく子供を殴っている近所の年寄りもいましたし、木刀や竹刀で生徒を叩きまくる教師もいました。そう言った環境が幼い頃から無い(?)今の子供達は、自分達を鍛錬するには、今日いじめ役の子が明日はいじめら れっこになると言う、現代の”いじめあいっこ”をするしか無いと言う事で、動物の本能的に自然発生し続けるのではないかと推測しますが、それによって、自殺にまで追いやられてしまうほどと言うのはあってはならない事と考えます。 限度を知らねばなりません。

しかし、現代のいじめ自殺の原因に、凶悪ないじめがあるのならば、それを解消すべき事項ですが、他方、容易に子供が、自殺を選択する環境もできてしまっているのではないでしょうか。(大儀無き)未来のある若者の自殺行為は、最も悪い事であると言う認識の欠如です。

さて、では何故自殺がいけないのか?

こんな当たり前の事を書く必要性がそもそもあるのかと言う気もしますが、どうやら、若年層には、真剣にわからない人もいるのが、今の時代なのでしょう。精神論や宗教観に則って書いても、自然と身につく環境が無いので、わからない人がいてもおかしくは無いのかも知れませんので、多少理屈っぽく(?)2つの意味あいで書いてみます。(家族が悲しみに打ちひしがれ、彼らの人生をも殺す行為であるなどはデフォルトですので除外します。)

1:社会への責任。

自殺がいけないのは、「ここ」にいる人達は、生きる為に生まれてきた者であり、生かす為に、両親や家族、先祖の意思を受け継いで生を受けた者です。(私は明治の年寄りから、「我が骨肉を分け与えし者よ」と言われ、説教が始まり、延々と続く話の最後にゲンコツと言うのが子供の頃の日課のようなものでした。) よって、自らの死を肯定する者は存在するに相応しく無く、考えを正しく改めさせねばなりません。また、自らの死を肯定される他者がいる環境は、自分達や自分達の子孫、広い意味での国民社会全体へ悪影響をもたらす可能性があります。人間、動物の本能としての種の保存 として、DNAの継承の安全性を阻害する恐れがある思想故に、やってはならないと考える事ができます。

2:他者としての自己への責任。

よく、一時期の気の迷いで死ぬなどと考えるなと申します。本人はその時本当に深刻に考えて出した結論であり、他者には計り知れる要素では無い故に、本人にとっては無責任極まりないと考える場合があります。しかし、一方、自殺を思いとどめた者が何年か何十年かした後、笑い話のように馬鹿げた行為として語る場合がありますが、笑い話にできる程度の軽い行為で無いケースであってもそうできてしまいます。これは、自己と言うものが、今の一瞬の自己の存在と、未来の自己は実は他者であると言う関係性による物だと考えます。人間の細胞は何年か経てば全て置き換わります。厄年などで は更に大きく変わります。よって、実は自己を継承しているのは、自己と周りの他者による曖昧な記憶の連鎖や補完によるものであって、肉体的、精神的には、絶対的価値観で捉えれば、他者に近い存在になります。自殺とは、今の自己の生命を絶つ事によって、未来に生ずる他者の命を奪い取る 殺人的行為であり、やってはならないと考えます。

宗教的な見地から、1つのみ物を言うとしたならば、果たして、死んだら、また何の努力も無しに人間として生まれてこれるとでも、思っているのか? と言う点に尽きるでしょうか。(長くなるので、この辺りは、私のようなボンクラの私見よりも、宗教学者関連のサイトでもを訪問して下さい。)

もちろん、いじめられるほうが悪いとか、いじめるほうが悪いとか、そんな低次元な魔女狩り的なオハナシは勘弁して頂きたいですが、要は、いかに強く逞しく、優しい気持ちと自分に責任を持った子供に育っていける環境にするかを、社会全体や 学校、保護者、そして当事者の子供自身は特に強く考えておく必要があるのではないかと考える次第です。

鉄は熱いうちに打てと申します。鉄は熱い内に鍛えれば、早く形が整えられます。冷めてからでは中々そうはいきません。鉄としても鍛えられるのならば、熱い内のほうが歓迎されるのですよね。

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