格差社会を、あらためて考えてみる。

2008.01.03

 昨年は、”格差社会”が話題になったが、グローバル化が進むと言う事は、格差社会を受け入れると言う事であり、格差社会を受け入れないと言う事は、グローバル化から背く孤立した存在になると言う事であり、日本全体の衰退を覚悟せねばならない事であろうと思う。

故に、格差社会はより一層進むだろう。しかし、格差がある事が本来の健全な国家なのだと言う事に私達は気づかねばならない。高度経済成長やバブル経済を経て、国民総中流意識などが根付き、皆が経済的に平等であるかのような錯覚を持っていたのは事実だが、それでも貧富の差はいつもあったし、バブル経済崩壊時のほうが、経済的に困窮した者のほうが多かった筈だ。破産した経営者の自殺報道も連日のようにあったが、それらはバブル経済に浮かれた無責任な経営者ばかりでは無く、連鎖倒産の影響を受けた中小零細企業の経営者も少なからずいたが、大々的救済措置が取られたような記憶は無い。にも関わらず、現在、格差社会と言う名の元に困窮した者を救わねばならないとでも言いたいかのような、あたかも格差是正社会を日本全体が望んでいるかのような錯覚を受ける理由は、格差社会、即ちグローバル化が既得権者の利益を蝕んでいるからではないかとずっと思っている。

たとえば、道路事業や郵政事業にしてもそうだが、無駄を省き、健全な運営を行う事は、健全な企業の成長を促進し、サービスの質が向上し、消費者に利益を与え、環境の保護にも繋がるだろう事は誰でもわかる事だが、郵政民営化にしても、あれだけ国会やマスコミで、国民にとって不利益でしか無いかのような報道が連日のようにあったが、果たして現実は、その通りになっただろうか?(皆まで言わない) 同様に、大手企業もグローバル化を更に進め、変わらねばならない筈だが、莫大な利益を生む既得権益を容易に手放す事も無い。更に言えば、何十年かかっても実現しない行革などは、まさに既得権益がある故だろう。

既得権益を守る世界のほうこそ、実は格差社会である筈だ。正確性を求めれば、格差固定社会であって、弱者が成功を掴めず、強者が弱者になる事の無い、枠組みが固定化された社会であり、例えば、銀行の護送船団方式であったように、社会資本的な存在に対しては、国家・国民は無条件に守るべき存在として認識するが、それが本当に社会資本的な公共性のある物であるかどうかは、近年は大きく疑問視を持たざるをえない状況になってきている。年金問題などは極めてわかり易いが、昨年は、食の安全を裏切ったとされる報道もあったが、一般企業にしてもそうなのだ。本当に国益や国民の利益を重視しているかどうかを消費者は厳しい目で見つめる状況になってきてる。故に、既得権益を守る事が更に厳しさを増しているのだろう。ネームバリューの値打ちだけでは人は動かなくなってきている。

私は、弱者や敗退した者でも、真剣に誠実に努力をし、頑張った結果、正等な利益を手にし、社会的に成功する、敗者復活が何度でもできる社会や、いわゆる勝ち組にいる者が、慢心によって事業を失敗したり、反社会的な言動によって社会的に糾弾され、失速し地に落ちる事は、もっともな事であり、このような格差が起きる社会を受け入れる事は自然な事であると考えている。

更に言えば、これからの日本は、以上のような健全な格差社会が必要であって、避けては通れない状況になっていると考える。

そもそも、日本は高度経済成長を経て、現在があるが、当時は、頑張れば皆が経済的に豊かになり、幸せになれるほど恵まれた環境であった。昔の人間(今の団塊の世代以前)は本当に良く働き、そして国際競争力の高い企業が幾つも生まれ、輸出産業が大量の外貨を獲得してきた事に、こんにちの金持ち大国日本がある。大雑把な国内事情だけ見ても、いい事づくめだが、そのような状況が継続する見通しは今の日本には無い。国家や社会よりも、家族や個人の生活を重視し、経済的価値観とは別の価値観も多様化し、労働条件も変わってしまった現代では、例えば、ニートなどの労働拒否層に代表されるように、国民が一丸となって働くような時代でも無く、経済競争力も技術力も相対的に衰えてきつつあるのだから、何らかの指数を参照せずとも、日本経済は少なくともゆるやかな下降状態にある事はあきらかだ。

経済を活発にするには、経済に携わる、働く人間が、健全で元気になる事が最も重要だ。その為に、頑張った者が認められると言う格差を生み出す社会は必要になってくる。たとえ大きな業績を成し遂げても自分の利益にはならず、会社や既得権者のみに利益をもたらす古い体質では、もう駄目なのだ。

また、高度経済成長が故にもたらされた日本の繁栄であるならば、それ以前の昔の日本社会に習う部分は多分にある筈であり、昔の日本に存在していたであろう、格差のある社会から学ぶ点は多分にあるだろうと思う。だが、しかし、現代の格差社会は、決定的に昔の日本には無い歪を生み出す環境を持っている。

何かと言えば、強者と弱者の格差が広がってしまう社会を、現代日本人の国民性が自らが作り出してしまっている事だろう。弱者は強者を助けるが、弱者は弱者を助けない、強者は強者同士で助け合う。この連鎖が広がっているように思えてならない。もっとも、被害甚大な大災害などへは国民全体が救済の手を差し伸べるが、それはマスメディアなどの権力への服従でしか無く、例えば、ホームレスなどへの募金は僅かでしか無い事が示すように、日本は極底辺層の弱者にとって厳しい社会だが、一般市民においても、弱者同士が強く団結しあい大きな運動などを起こすと言う事も滅多に見られなくなったし、近年の年金問題や薬害訴訟にしても、マスコミや政治が動かねば、(これまで同様に)闇に葬りさられ続けていた筈の話だ。

もちろん、町も住居も、ライフスタイルも変わり、人と人との関わり合いが変わってしまったのだから、昔のように向う三軒両隣的な隣人や地域に住む人を大切に思える状況には今は無い。また、その点をマスコミが全てカバーできるものでも無い。唯一克服できるとするならば、弱者を見捨てる事ができない人の心理、義理人情の復活を促進するしかないだろう。とすれば、まず、人の上に立つ者、学校教師や経営者や政治家が、義理人情を重んじ、道理を深く理解し、自己犠牲すら厭わない、人間臭い者である事が最初の条件になるのではないだろうか。少なくとも、人の気持ちのわかるリーダーや指導者が必要だろう。

格差社会が引き起こす問題は、カネなどで解決するものでは無く、人を元気にする事や、弱者に皆が力になる事で解決すべきであり、そのような社会が成り立つ事は、即ち、貧富の差に因らない、幸福の価値観が育まれる健全な社会の到来であり、これからの日本に求められる優先的課題の1つではないでしょうか。

真面目な者が、真面目に頑張れば報われる社会である事、それが周知される事こそが大事なのだろうと思います。

 既に、日本はグローバル社会から孤立した存在として、相対的に顕著になってきつつありますが、日本国民の個人金融資産1500兆円がある間は、企業の国際競争力が衰えたとしても、なんとかなるでしょう。しかし、個人のお金をターゲットにしたいかがわしいビジネスが横行すると言う事は、義理人情どころか、嘘つきだらけの奪い合いの社会になるのではないでしょうか。正直者が馬鹿を見て、ずる賢く、悪い奴が、生き易い世の中になると言う事です。

2007年の一文字は、『偽』でしたが、2008年を表す一文字が、『嘘』だの『騙』だのと言う文字にはならないでいてもらいたいものです。

お正月の落書きと言う事で、ご愛嬌のほどを。

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