おたわごと:新釈 ウルトラマン 義理人情に厚い宇宙人だった

2005.07.22

 『特撮は文化だ』などと呼ばれ、過去の数々の特撮作品が高いレベルで科学的に考察した解釈本など続々と出版され、近年では特撮がアートとまでなり美術館などで展示されたりオークションで高値がついたりする、正に文化的な評価を受けている。初代ウルトラマンも例外では無く高く評価され、更には仏教的な菩薩や神などして宗教的な解釈も広く認知されている程だ。特撮科学番組で育った世代である私自身もそのような状況を歓迎し、同時にそのように感じているが、ふと、初心に戻って初代ウルトラマンを振り返ってみたとき、果たして作り手は、当時そのような極めて崇高な考え(のみ)に基づき製作していたのであろうかと考えると、そうとも思えない。これも、現代の匠達が語る、”ガンダム者”を見ればわかるように、(初代)ガンダムしかりで、歴史は後から作られている事も少なくは無いのではないかと考える。

 で、夫婦のとめどもなく何気ない会話から、ふとウルトラマンの話になり、”そもそも論”から始まったのだが、なんせ半分目が閉じかかった眠い状態での会話で、もしかしたら記憶違いに基づいて話を続け、大きく間違っているかも知れないが、それは『おたわごと』のページなのでご愛嬌のほどを。あ、それと特撮マニアの方は読まれても、多分、何も面白みの無い駄文ではないかと思いますので…

ウルトラマンはヒーロー物に非ず

その前に、そもそも、ウルトラマンがヒーロー物であると言う定義には、どうも納得いかない。と言うか、ヒーロー物などと言うカテゴリーは存在しなかったんじゃないだろうか。正義の為に戦ってくれた巨大な謎の宇宙人であった事は認めるが、ヒーロー(英雄)と言うよりも、”必ず勝つ”別格的な存在だったように思う。光の国からやってきた慈愛の精神を持った巨大な神であると言う解釈も今は一般化していると思うが、正に同意している。(ウルトラマンの元々の名前がウルトラセブンの原題でも使われた レッドマン=LEDMAN 即ち、”導く人 ”であった事からも、(一般人よりも)高尚な立場に位置する人と言う設定・企画であった事は伺える)

しかし、あからさまに”神”であるかと考えると、どうも合点がいかない。最後は”宇宙”と冠しているとしても、怪獣以下の宇宙恐竜にすらやられてしまうほど、実は弱い存在なのだ。冷静に素直に考えると、ウルトラマンは義理人情に厚い、一人の宇宙人だったと思われる。

ウルトラマンはハヤタ隊員への罪悪感を強く感じる純真な宇宙人だった

それに基づき、ウルトラマンの側から見た、ウルトラマンのストーリーを大雑把に語ると以下のようになる。

ある日パトロール中、凶悪宇宙怪獣ベムラーと遭遇、逃げる青い玉となったベムラーを、ウルトラマンは赤い玉となって追いかけ、地球へやってくる。そこで、科学特捜隊のハヤタ隊員の乗ったビートルと激突し、ハヤタ隊員は死亡する。しかしながら、義理人情に厚いウルトラマンは、異星人の死を放置できず、自らの命をハヤタ隊員に与える代わりに、自らもベーターカプセルによって一身同体で、地球上で一時期を過ごす事にした。(確か)数万年の寿命を持つウルトラマンからすれば、人間の寿命など一瞬であり、その間、命を預けておいても特に不自由は感じなかったのだろう。また、光の国の宇宙人として、怪獣退治などの成すべき仕事(生きがい)も感じれる事もあったし、人間を攻撃する危険な怪獣は科学特捜隊のハヤタ隊員は任務として退治せねばならず、ハヤタ隊員が死んでは困るので、ウルトラマンは地球上では怪獣退治は必至のお仕事になっていたのだろう。

ハヤタに対する(彼を自分の過ちで殺してしまったと言う)罪悪感と、その根底にあるウルトラマンの義理人情の厚さ(初代ウルトラマンに限った話では無いが、全ての怪獣を殺した訳では無く、更正が必要で危険な怪獣のみ、やむなく最後はスペシウム光線で退治したと言う所ではないか。退散するようなら特に殺すような事もしなかっただろう。また逆に怪獣を助けた場合もあった。正しき方向に導く”LED MAN”故にそう言う行動を取っても何も不思議では無い。)故に、ウルトラマンを最終回まで地球にいらしめたと解釈してもおかしく無い点もある。その事を強く証明するのが、ウルトラマン最終回だろう。最終回でウルトラマンはゼットンにやられてしまう訳(完全に死んだ訳では無い)ですが、その時に現れた(ウルトラマンの上司的存在の)ゾフィーによって、ウルトラマンはM78星雲に連れ帰られようとした時、ウルトラマンはそれを拒否した。理由は自分が帰れば、ハヤタ隊員が死ぬからだ。更には、自分が完全に死んでも自分の命をハヤタ隊員にあげて助けたいとまでゾフィーに言う。やむなく、ゾフィーは2つある命の1つをハヤタ隊員に授ける事とし、ウルトラマンはゾフィーと共に地球を去って行く。

たった一人の地球人の為だけに、自分が犠牲になって死んでもいいとすら言ったウルトラマンには、不慮の事故とは言え、一時は死なせてしまったと言う後悔の念があったに違いないのではなかろうか。そこにはヒーロー物などと言う正義と平和の戦士と言うイメージとは異なる、いかにも人情的で苦悩する一人の純真な宇宙人の姿が見える気がしてならないように思う。

もし、第1回目(ウルトラ作戦第1号)で、同じ星のゾフィーのような考えを持った物が来ていたならば、ハヤタ隊員の命は見捨てられていたかも知れない…

ウルトラマンの正義は、観る者が共感しうる義理人情が原点である

毎度おなじみですが、このページは、『おたわごと』の1ページであって、管理人の息抜きのなぶり書きに他なりませんので、”ウルトラマンは正義の戦士や神的存在である”と言う解釈を全く否定するものではありません。その上で、このようにも解釈するのも面白いのではなかろうかなと言う程度のものです。故・円谷英二氏は特撮物の監督として神としてあがめられるほどに有名な、明治の人間ですが、携わった作品は時代劇・怪談物・戦争物などの人情・悲哀物のほうが多い方です。ウルトラQ、初代ウルトラマン、ウルトラセブンにも熱心に取り組まれ、一切の妥協をせず、ウルトラセブンでは赤字経営であってもでもやり抜かれたほどですが、円谷英二氏が映像作品に関する持てる全てをウルトラマンに注ぎ込んでいたとするならば、氏の携わって来た”戦う者”に関する作品のエッセンスもまた、初代ウルトラマンの中で生きていたと考えてもおかしくは無いのであろうと思います。

毎回毎回、悪い怪獣が出てきて、それを勧善懲悪のみでやっつける正義のヒーローと言うだけで、果たして、21世紀にまでシリーズが続いていたでしょうか。そんな事は無い筈です。昔の人間は今の時代の人間よりは単純でしたが、気持ちと言うか、理屈では割り切れない部分を、或いは目に見えて表現されている物のみでは無い部分、或いは言葉にして伝えていない部分を、大人も子供も、今よりも、一層敏感に感じ取っていたように思います。幾ら相手が悪で、こちらが善であり、倒すべき十分な力があったとしても、それだけが退治する理由にはならない筈です。(列強の欧米諸国にやむを得ず挑み敗戦した記憶が未だ残る昭和の日本ですからなお更でしょう。同じく、故・円谷英二氏の携わった、東京を火の海にしたゴジラですら、人間の犠牲者であるようにすら描かれていたのですから。) そこに義理人情が介在していれば、通すべき正義が存在していてもおかしくは無いでしょう。当時の人ならば、ウルトラマンのそう言った影的な部分を、頭では理解せずともわかっていたのではないでしょうか。(大雑把な物の言い方をすれば、その戦う者の影の部分をデフォルメし、受け継がれたのがウルトラセブンではないかなと。そう考えると、最もシンプルで単純だったとされる初代ウルトラマンが、実は最も奥深い作品であったとも解釈できてしまうかも知れない)

巷にあるウルトラマン論などのような、特に難しい講釈では無いとは思いますが、多分、多くの方にすんなりご理解できるかなと思います。

まぁ、人間、眠くて仕方の無い時は滑稽な事でも平気で書きたくなるもんですから。(では、寝ます(^^;)

追記:

最終回にまつわる話で、良く言われますが、昔の子供(人間)のほうが純真だったとは思いますが、(最終回で)ウルトラマンが負けた(死んだ)からと言って、泣くような(酷く)悲しむような人などはいなかったんじゃないでしょうか。今では放送できないほどの残酷で悲惨な戦争ドラマ関連などの番組や、酷く怖かった怪談物の番組などもいつも観てましたし、何より子供を取り巻く現実社会は、躾・折檻などで、より厳しく残酷でしたので、負けない筈のウルトラマンが負けたのはショックでしたが、そんなに悲しむと言うほどの事は無かったです。(ウルトラマン以外にも色々と観る物もありましたしね。マグマ大使、赤影、キャプテンウルトラ、高速エスパー、ジャイアントロボ… 色々ありましたね。) それよりも、暫くして始まった”ウルトラセブンってなんなんだ??”みたいな(この後続の番組の為に突如放映終了してしまったんじゃないかと言うような)裏切られたようなショックのほうが大きかったかも知れません。

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